こんにちはGuuです。

本当に久々の更新です。

ようやく会社を閉じる作業が終わりました。
事務所兼倉庫の契約期間いっぱいいっぱいのギリギリで滑り込みセーフです。

この2週間はこの会社を閉じる作業に没頭していましたが、消防団や自治会の新年会。
インフルエンザ。
業者の見積もりの甘さによる、作業の停滞などイロイロなトラブルが次から次へと出てきました。

おまけに昨晩は、隣の村で老人の一人暮らしの一軒家が火事で出動し、帰って来たのは午前様でした。

そして本日の最期の掃除&引き渡しで正直心身ともにボロボロです。

と、言うわけで兼業農家最後の日は疲労困憊状態です。

明日からは晴れて専業農家ということになりますが、実は会社は畳んだと言っても友達にあげたので、引き継ぎなんかも結構あるので、まだ少しそっちに時間を取られそうです。

とはいえ、ここが区切りなので、少し俺の人生を振り返ってみましょう。

どこから・・・・というのも面倒なので、今に繋がりそうなところから振り返ります。

中1の時に両親が離婚し、俺はオヤジの元から家出をして母親を探して身を寄せていました。

市の福祉で特別に父親から俺を保護するために隠蔽することになり、住民票は移さないまま特別入学と言う形で母親の住む市の中学に転校しました。

この時点では俺の親権は父親にあり正規の入学ではないので、教科書が支給されません。
地元の民生委員の人が、卒業生から教科書を集めてくれたりしましたが、足りないものも多く、またDVオヤジから隠れるため、息をひそめる様な生活をしており俺の成績はガンガン落ちていきました。

それを心配したオフクロは、以前NHKを退官した知り合いの天文学者が、「これからはコンピューターの時代です。Guuにはコンピューターをやらせなさい」という言葉に従い、俺のマイコンを買ってくれました。

マイコンってしっていますか?
今はパソコンとかPCとう単語を使いますが、昔はマイコンと呼んでいました。マイクロコンピュータとMy compyuterをかけたの呼称だと思います。

タイピストをしていたオフクロは、丸井で月賦で当時30万するマイコンを俺に買ってくれました。
当時のオフクロの収入は月17万ぐらいだったので、相当きつかったと思います。

当時、マイコンはソフトが無ければただの箱。と言われ、OSという概念も無ければ本体だけで何かができるという代物ではありませんでした。
何しろ漢字すら表示できないし、カラーもようやく8色出せるようになって凄い!と言われていた時代です。

オフクロは、マイコンの次に秋葉原に俺を連れていき、数学や英語の学習ソフトを買いました。
今からすればたわいのないソフトですが、俺はそれを使い勉強するようになりました。
しかし俺としてはゲームをしたい。
特にインベーダーゲームを心行くまで堪能したい。

でも買えない。
ゲームソフトは1本3000~5000円ぐらいします。

母子家庭にはきついです。

なので、自分でゲームを作ることにしました。
そうやってプログラミングを独学で覚えていきました。

高校生になるとあることに興味が出てきました。
マイコンからパソコンと言う言葉にとって代わってきた時代です。
とはいえ、まだ8ビット全盛です。
興味がわいたのはパソコン通信です。
今でいうインターネットに似ていますが、ネットワークの仕組みがもっと原始的で、相互に繋がるのではなく、ホストと言うコンピューターに、電話回線を通じて端末が繋がり、端末同士のやり取りをホストコンピューターが司るという仕組みです。
このサービスは日本では富士通と日商岩井の合弁会社であるニフティーサーブやNECが運営するPC-VANが有名ですが、俺が始めたことはまだそのサービスすらありませんでした。

有志で実験的にホストをたてて雑誌なんかで接続用の電話番号などを公開して、やりとりをするというものでした。
ホストもターミナル(端末側)も専用プログラムが必要なのですが、売っていないので、自分で開発して運用したりしていました。

その後、映画「war game」などが流行り、そのまねごとで雑誌社の運営するホストコンピューターにハッキングなんかもして遊んでいました。
当時は法律もなく、のんびりしていたので、セキュリティーなんかほぼなく、相手側のプログラムを想像し、バグをついて侵入するというのはたやすいものでした。

そんな高校時代を送るのですが、年頃になりコンピュータより、女子の方が気になり、次第に音楽やファッションを気にするようになってきました。

そして大学に入り、その後中退。

オフクロは俺の親権を取るときに、オヤジ方の親族に「大学に行かせられるのか!」と罵倒されたと良く俺に話します。

金だけ使わせて、辞めてしまったとは今でも後悔しており、大学に通い直す夢をみるぐらいです(^^;;


中退時バブル崩壊で、社会に出た時はそれまでのイケイケの社会情勢は終わりを告げていました。

俺は、求人広告代理店に正社員として入社しましたが、入ってすぐに超ブラックということに気が付きました。
定時は5時半のはずですが、毎日21時。

営業なのである程度は仕方がないですが、ノルマがこなせないと帰れない。
すでに客先の会社が終業しているのに、どんな営業をしろというのだろう・・・
ノルマを達成すると、翌月には更に高いノルマが課せられました。

今なら判らないことはないですが、社会人1年目の俺はいつも息が苦しかったです。

やめようか・・・。

でも負けるのは悔しいな。

そんな時に、グループ会社が3社あったのですが、3社共同で営業成績を競うキャンペーンがありました。
ここで入賞して惜しまれて辞めよう(^^v

と、いう事で入社半年で150人中2位という好成績で辞めることができました(^^

勝因は、営業ツールにワープロを持ち込んだことでした。

当時原稿はすべて手書きだったのですが、仕上がりがクライアントがイメージしやすいように、プレゼンの段階で完成形にちかいものをワープロで作って説得していました。

また、キャッチコピーなどがうまかったので、求人状況も良くリピ多かったのもありますが、生意気だったので決してクライアントからは好かれていなかったと思います(><

とはいえ、俺は勝ち逃げで退社しました。

その後、研究助手募集の広告を見て応募しました。
条件はパソコンが使えることです。

パソコンから離れてだいぶたちます。
日進月歩の世界だし、俺が知っているパソコンはビジネスで使える様なしろものではありません。
でも、当時の俺は世の中をかなり甘く見ていたので、面接に行くことにしました。

面接官はライダースジャケットを着てバイクで面接に来た俺を疎んじるどころか、気に入ってくれて、前日に内定を出した人を断って、俺を採用することにしてくれました。
この時の俺のどこを気に入ってくれたかは今でも謎です。

1週間ほど、その事務所で勤務したのちあるプラントの研究施設に派遣されることになりました。
元々、その研究所から助手の派遣要請があり、求人を出していたようでした。

俺の仕事は、電力会社に収めるダクトの騒音対策。電子消音システムの実験補助です。
1カ月ほど実験装置のある埼玉の奥地に滞在する予定なのですが、準備が遅れて数か月研究所内でその変にある最新のパソコンで遊びまくり、当時のパソコンの情勢と言うか技術レベルの進化を知りました。
上司はPCが好きで、当時はまだ人に知られていないWindows3.0を使っていたぐらいです。
因みにこの研究所の中では、ほとんど存在すら知られていないVer1世代もありました(^^;

この時に仕事の契約は半年だったので、研究テーマが予定の半年で終わるときに、俺を雇う予算がつきませんでした。

上司は俺を手放すのが惜しいと思ったらしく、別のグループで助手を探しているところへ一時的に俺を預けることにしました。

音響グループから、空調グループへ移籍です。
この空調グループではクリーンルームのフィルターなどを研究する部署です。
しかしここは長く続かず、水処理グループへ売られていきました。

水処理グループのボスは、おおらかな人間なので、俺のいい加減なところは許容してくれました。
仕事さえできれば良いという考えです。

そんな中で俺の勤怠は甘えはじめ、お昼出勤になるようになっていきました。
お昼に出ても、「Guuままた、今日も来ていないのか?しょうがないなぁ」ぐらいで終わってしまします。
それが毎日でも・・・・。

それに甘えている俺は自分が嫌いになっていきました。
一方で女性関係でもいろいろややこしい事になっていました(詳しくは書きません)

そんな中、全ての実験をやるより、シミュレーションで確認してから実験をした方が効率が良いという考えがボスの中に出てきました。

原発などを設計していた学者を呼んでアドバイザーになってもらい流体のシミュレーションプログラムを開発することになりました。

このころ俺は、実験データの整理や論文作成などはPCを使って手伝っていましたが、プログラミングが出来ることはボスには言っていませんでした。

そんな時、学者が作ったプロトタイプのシミュレーションプログラムを使っていくつか検証してみてくれとボスに言われました。

条件を1個1個試すのは面倒なので、勝手に改造して一気にできるようにして検証していたら、その学者先生が、「このプログラムは誰が改造したの?」という事になり、何故か気に入られて、一緒に開発することになりました。

毎日毎日シミュレーションプログラム開発にいそしむことになります。

しかし、プログラム開発しているのなら、いっそのこと専門会社に行こうかな?
ここだと俺はいつまでも甘えたままだし。
居心地よすぎるんだよ。

そう思ったのは27歳の時でした。

みんながとめてくれたけど、俺は甘えっぱなしの自分に嫌気がさしていたし、一度人間関係をリセットしたかったのもあり、またきちんとした形で会社と言う組織に忠誠を誓ってみたいと思って転職することにしました。

ソフトウェア会社をいくつか回って、数社内定をもらったけど、社長が俺より10歳上の小さい会社の行くとことにしました。
この社長に惹かれました。
この人に忠誠を誓おう。

俺は自分は神輿の上ではなく、補佐する側に向いていると思っています。
なので劉邦を探している馬良。
劉備を待つ諸葛亮だと思っています(盛り過ぎだ

帯広が本社で、東京に支社を出した会社です。
社長と一緒に仕事をするつもりでしたが、叶わず、わずか1年半で退社をすることになります。

思うところは色々あるのですが、俺は社長を待つことができなかったのだと思います。

今でもこの社長は俺の尊敬の的です。

この会社を辞める時に、元受けの大手F社からヘッドハンティングが来ました。
俺は納品物に一度もバグを出さなかったというので、F社のSEからはかなり信頼を受けていましたので、条件も破格でした。
しかしそれを受けると、良い条件だから会社を裏切るということになりそうだし、俺の心身とも疲れ果てて、プログラマをやるには心理的に無理だったんだろうと思います。

会社をやめた俺は、何故か結婚することになります。
ぷー太郎のまま・・・・(^^;;
しかも子供まで生まれちゃうという・・・。

ヘビースモーカーの俺はいつものようにタバコを買いに行くのですが、財布の中身がわずか800円しか無い事に気が付き真剣に考えることになります。

俺は通販に興味がありました。

当時、ネット通販は黎明期。
ようやく楽天が生まれてきたばかりの頃です。

とりあえず楽天の資料でも取り寄せよう。と思いフォームに入力をしようとすると、色々設問が多い。
会社名、屋号・・・
とりあえずテキトーに書いて申し込む。


しばらくすると楽天から電話がかかってきて「魚キチさんですか?」・・・
商材はなんでしょうか?
「その辺の川で採って来た魚です」
「漁師さんですか?」
「いえ、ただの釣り人です」
「・・・・・」
楽天さんはその後、電話はくれませんでした。

さすがにテキトー過ぎたね。
出展費用とか知りたかっただけだけどね。

そんな時に、楽天ビジネスと言うマッチングサイトが誕生しました。
まだできて1週間目ぐらいだったけど、個人事業主は割と安めだったので、個人事業主として申し込みました。
仕事を依頼した企業が案件を掲載して、それに対して参加団体が見積もりを出し、営業するというものです。

始めはフリーのプログラマとして仕事を受けるか。程度の気持ちでしたが、やっているうちに楽天の店舗を作ってほしいという案件が多いのに気が付きました。
そうだ!
通販専門のコンサルをやろう!
WEB業者はたくさん生まれ始めていましたが、通販専門というのに行きついたのは俺ともう一社だけでした。
これがあたり、ガンガン受注できました。
楽天ビジネスでも、俺の受注動向がトップクラスなので、成功例の紹介なので取材などしてくれました。
するとカリスマ扱いになり更に仕事が増えました。

脱サラをするときにヘッドハンティングを断りましたので、その時のお誘いの年収を越えなければ俺の負けと決めていました。
あっさり2年目で目標を超えました。

すると昔、バイクのレースをやっていた時の友達が、弟子にしてほしいと尋ねてきました。
そいつも俺と同じ仕事がしたい。
教えて欲しいということでした。
当時、行き別れた弟も仲間に引き込んで手伝わせていたので、一緒に受け入れることにしました。

民家の6畳ぐらいの一部屋が仕事部屋です。

そこで彼らの将来を心配するようになりました。
会社組織にして身分をちゃんとしてあげないといけないのではないだろうか?

また、俺を頼ってくる友達でネット通販をしている友達がいたのと、楽天ビジネスで知り合った中国人が、商材が売れなくて困っているというそうだんもあったので、全部引き受けて会社にすることにしました。
中国人からその商材を買い入れて、俺がネットで売るというものです。
当時は並行してコンサルもやることにしましたが、弟子の友達は、離婚問題で辞めて、くだらないことで弟ともケンカしてしまいました。

弟を誘い入れたのは俺なので、コンサル部門は全て弟に譲り独立させることにしました。
また弟に移行しないクライアントには、お暇を頂いて、通販に集中することにしました。

始めの半年は苦労しました。
資本金は200万。

あっという間に底をつきました。

が、ギリギリのところで俺はある心理に気が付き、そこから細工をしてそれがあたり売り上げはガンガンあがってきました。
起死回生です。
勝ったと思いました。
それから1年後、年商2億になりました。
あっというまの出来事です。

そもそも銀行からお金を借りたことなかったのですが、家を買うのに銀行に行って会社の決算書を見せてくれと言われて見せたら、こんな会社があったのか?っという感じであっちこっちの銀行の偉い人が毎日にように金を借りてくれとくるようになりました。
世の中は不景気の真っ最中。
非常に稀有な会社だったようです。
新聞の取材なども来るようになりました。
3人で始めた会社も15人まで増えました。
携帯キャリアも優先的に扱ってくれます。
あっちこっちのECモールアワードも貰いました。

が、そんなときに3.11が起きました。
世界は変わりました。

変わったのなら俺も変われば良いのですが、しばらく俺は呆けていました。
やる気がない。

元々商材じたい興味があるもので無かったのもありますが、仕事にやる気がなく、保守的な行動しか起こさなくなりました。

そして1年前。俺は初期メンバーに「俺はやる気が無いんだけど。みんなはあるの?もし一人でもやる気があるというのなら、俺には責任があるので、ここから自分をコントロールして何とかしてみるけどどう?」と聞きました。
二人は黙りました。

そっか、俺はほかの事していいのか。

という事で俺はかねてよりやりたかった農家の道に進むことになります。
もちろん以前に書いたSの死の影響は大きいです。

そしてこの2週間、手作りの会社を自分の手で手じまいをすることに専念していました。

色々な事が思い出されました。

良い事も悪い事も、頭に来ることも悔しい事も、みんなで大騒ぎしたことも。

ここでは書けないことも沢山ありますが、すべて綺麗になりました。

cameringo_2019-01-31 12.52.37
これは今日出る時に撮った写真です。
およそ60坪の建物です。
最盛期は同じような倉庫を5棟ほど運用していました。
少しづつ減って行って、これが最後の倉庫です。

お疲れ様でした。今日までの俺。

明日からは専業農家です。


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